想いの証
ある方より
”自分のこころ以外には、なんの証もない想い”
(十字架 ~ あなたの説いた愛を背に ~ より)
ということについて、
コメントを頂戴いたしました。<(_ _)>
外的要因に変化するものは想いでは有りません。
ひとつのいのちが唯一のように、想いも唯一のもの。
想いに証は必要ないけれどもし有るとしたら、
いのちそのものが証になる のかもしれませんね。
想いが交差したとき、その想いを守り通すこゝろを持つ事かな
と私は思っています。
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わたしのお返事
想いのような無形のものの証って難しいですね。
それは想いだけでなく、
過去の出来事・・・だけどそれは過ぎ去った出来事になってしまったこと、
などにも言えるかもしれません。
目は口ほどに物を言う という言葉がありますが、
言葉にしなくても、
瞳に想いを込めることもできますが・・・
何もいわなくても、相手にそれを感じるだけの感受性のようなものがあれば、
瞳を向けただけで、相手はその気持ちを、実際に受け入れるかどうかは別として、
瞳に込められた想いを察知するでしょうね。
もちろんそれは瞳、視線だけではありませんけれど。
証・・・には有形、無形のものがあるとおもいますが、
相手の心に、脳に刻まれていれば、
証 といえるのかもしれません。
ただ、相手にその証というものを、常に水(想い)を溜めておくために、
水(想い)を掬い続けるように、心や記憶として保ってもらわないと
実際に顔を合わせる時間がある場合は別ですが、、、
相手が遠い存在である場合は、なかなか難しいでしょう。
また実際に相手と共有した時間や想いが、過去のある時点で存在したとしても、
その過去の出来事を相手がすっかり忘れてしまっていたら、
それもまた、過去のある時点で証であったとしても、
現在では 証 の意味をなさないものかもしれませんし。
そう言う意味では
いのちそのものが証になる
これは強烈な証でしょう。
ある人のいのちそのものが証であるならば、
その人とある人は、
ぴったりと重なる部分を、
多かれ少なかれ有しているのかもしれません。