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イランのTEHRANより日々思いついた言葉を発信しています。

カテゴリ:私見( 23 )


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”脳みそは生まれ落ちるとき、リセットされた状態でこの世に発送されてはいるが、

リセットされた脳は、過去の膨大記憶やデーターを保管しつつそれらを統制している、

マザー(母体)との繋がりを完全には絶たれているわけではなく、

今世といわれる次元から少し意識が離れる 夢 のような時空にいると、

部分的に一時的に過去の記憶ファイルが解凍したり(過去世での記憶、体験、感情などを見知る)、

どこに存在するのか定かではないが、異空間にあるマザー(母体)のデータをも、

共有できるのではないだろうか?


そしてある意識は、マザー(母体)との通信だけでなく、

様々な異空間・異次元そのものとも脳に秘められた潜在的な能力を通じて、

時と空間と次元を閃光が如く往来することができるのではないか?



そして物心ついてから、現在に至るまでの現世での我々ひとりひとりの記憶は、
その人生が終わっちゃうと、
具体的な経験や陥った状況などという詳細な記憶を、
いちいち記憶するわけではないけれど、

ある重要な出来事の経験をどのような視点でどんな風に見て感じて過ごしたか、
強い感情の波が起こったものだけが、マザーボードに記憶されていきつつ、
輪廻転生を繰り返していくように感じている。”


(以上、存在を感じていればいる程に 追記の追記3より)


しかし、ある魂(あなたの、わたしの魂)が、

無意識の裡にぴったり寄り添わせている過去世を寄せ集めた経験や記憶さえも、

”われ(本当のあなた、本当のわたし)”には非ずと、私は感じている・・・


輪廻を繰り返す個々の魂とその記憶は、

相対性の根本である”我”に固執している限り、

マザーボードに刻まれてきたこれまでの膨大な記憶は有効なのだろう・・・か?


これまでの数え切れない過去世での記憶や経験に囚われたくなかったら、

自我という壁を透る必要があるようで、

現世での経験や記憶を 眺める ことで現世だけでなく、

これまでの過去世、そして輪廻転生からも解き放たれるような気がしている。


(注意:自我に囚われない、自我を透るということと、客観、傍観とは明らかに異なる。

主観がなくなれば、客観もまたその存在そのものを失う処にある。)


自意識(我)を超えた意識というものは、いうなれば ・・・

澄み切った鏡のようで、そして鏡は森羅万象、万物を映す。


我々、誰しも!!の純粋な澄んだ意識という鏡には、全てが存在しているのだろう

と私は思う。





”存在を感じていればいる程に


その存在との間に



言葉は


意味も必要性をも


失っていく”





言葉は難しいものであるけれど、

容易に・・・それは”安易に”とも言えるのだけれども、

人に認識を促すものでもある。

それが 理性 とか 合理性、客観性といわれる手枷足枷 の仕業でもあり、

説明のつかないもの、認識できないもの、見えないものは存在しないと

言い切ることまで我々に強いてしまっているのではないか・・・

と、言葉が大大大大 だ~~~~~い好きで惚れ込んでいるけれども

わたしはそう思っている。



執拗にもう一度同じことを記す、


我々、誰しも!!の意識という鏡には、

全てが、全てが!! 存在しているだろうと私は思う。



そう思えば思うほどに、

そう感じれば感じるほどに、



見えるものしか信じられない人は

ものすご~~~~~~~~~く損しているとも感じている。


そしてそれは、

素晴らしい楽園にいるのに、

その楽園の真ん中にポツンと置いてある、
楽園を真似たちっぽけな箱庭だけをみて、

楽園だと想っているようなイメージなの。


見えないものというのは

ミクロの世界、マクロの世界のように

見えないけれど存在しないわけではない


っということを知ってもらいたい。


わたしたちの意識のピントがあっていなくて、

その全貌がつかめないだけに過ぎないのだから・・・






”索む もとむ”





意識を集中することと 

意識を解き放つことの 


術を索む


現象を 


ミクロスコープと 

マクロスコープとで 


眺められるように・・・



(つづく)








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by Maryam051144 | 2015-08-06 01:37 | 私見


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Wasabi氏より頂戴した御言葉から、

これまでの2回で ”頭(脳)”と”存在”いう言葉の

わたしが持つ概念をご説明した。


言葉は共通概念を提示伝えるものであるけれど、

人が独自の世界観でものを見る特質を有するが故に、

ある言葉には、その人の個人的なこれまで見聞きしてきたこと、

体験したことによって独自の意味が無意識のうちに加味されているのだろう・・・


っとわたしは常々感じている。


そういうわけで、頭(脳)にしても存在 にしても、

おそらくわたしは一風変わった感じ方、受け取り方をしているのだろうな、

っと思ったので説明申し上げた次第。





3回目は再び追記の追記1に話をもどして”脳”について述べる。



意識・思考・感情などを認識する脳はこの世という空間だけのものではない、、、

いうなれば時空を超えたところともリンクしているように私は感じている。

(追記の追記1から引用)


そして根拠は全くないがわたしは、

脳は何かによって、力を制御されているように感じている。



脳は、この世に生まれた後、急速な発達をする一方で、
恒常的に、大きな大きなある力を秘す、
しかし大きな能力はどういうわけかフリー、オープンにはなっておらず、
その能力は潜在の状態(沈黙)を保っているのではないか?っと。


簡単にいってしまえば例外を除いて、

極々一部の力を使うことしか許されていない、

ような気がしてならない。


(天才と言われる人はその例外の範疇に入る)



人の脳みそは使われていない部分が非常に大きいと言われているが、
その使われていない部分に何か大きな秘密があり、

あの部分には、膨大な記憶のようなデータとともに何か偉大な力が、
zip形式がごとく圧縮されているけど、解凍することができるのは、
大いなる力のご意思のみ・・・っというような気がしている・・・

これは全く根拠のない、わたしの妄想以外のなにものでもないけれど。



脳みそは生まれ落ちるとき、リセットされた状態でこの世に発送されてはいるが、

リセットされた脳は、過去の膨大記憶やデーターを何かでその力や中身が漏れないように包んで保管しつつ、

どっかで遠隔操作でそれらを統制している、マザー(母体)との繋がりは完全に絶たれているわけではなく、

今世といわれる次元から少し意識が離れる 夢 のような時空にいると、

部分的に一時的に過去の記憶ファイルが解凍したり(過去世での記憶、体験、感情などを見知る)、

どこに存在するのか定かではないが、異空間にあるマザー(母体)のデータをも、

共有できるのではないだろうか?


そしてある意識は、マザー(母体)との通信だけでなく、

様々な異空間・異次元そのものとも脳に秘められた潜在的な能力を通じて、

時と空間と次元を閃光が如く往来することができるのではないか?


っと、わたしはこれまで自分が見てきた夢や、目覚めていても、

意識のフェレカンスが変化したときにわたしがみたり、聞いたりする幻影、幻聴などについて想う。


(意識のフェレカンスを意図的、意識的に変化させることは私にはできないが、

おそらくこの世には意識的にそれを行なうことができる能力を持つ人も

たくさん存在するのではないかとわたしは思う)


夢とか、あるいは臨死しているときの意識の状態とか、

目覚めているけれど、幻聴やら幻覚をみたり聞いたりしているときには、

異空間、異次元へ通じるあかずの扉が開いているのではないか?っとわたしは感じている。



なぜならば、わたしは目覚めている時にも突然、

ある匂いを感じたり、他の人には見えないのだろう・・・


今、わたしの眼が見ているとわたしが感じているものは、

これは多分この次元のものではないのだろうな・・・


というものが見えたり、声がきこえたりするが、


しかしそれらは体の器官・五感といわれる

わたしの眼や耳や鼻を通じて感じているものではなくて、

脳みそへとダイレクトに知覚されるものなのだろうと感じているからだった。







(つづく)










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by Maryam051144 | 2015-07-04 17:02 | 私見




”存在を感じていればいる程に


その存在との間に



言葉は


意味も必要性をも


失っていく”





たったこれだけの言葉の説明になんだってわたしは、

これほどまでに言葉を連ね”存在”を伝えようとしているのだろうか?

っと滑稽に思う。


なんでこんなに躍起になっているのか?っと。



わたし自身でさえ、こんなにヅラヅラと言葉を並べて

一体何を伝えたいのだろうか?

っと自分の中で認識できていない。

言葉にできない、説明できないということもあるけれど、

自分の裡で未だいろんな現象がバラバラでその現象の共通項が見えてきていない。

真珠の首飾りのいくつかの真珠玉は見えてつながっているようだけど、
全容がみえないのと、真珠玉をつなげているものの正体がみえてきてない感じ。

この文章の続きがどうなるか?結論は? 実はまだわたしにも見えていないし、
この先みえてくるんだかどうかも定かでない。




”存在”という概念はとても不思議な概念だとわたしは思う。


そもそも ”宇宙の存在・万物の存在”そのものが面白い。


宇宙に比べれば、人間はなんてちっぽけなのだろう、

自分はごくごくごくごくちいさな、
あってもなくてもいいような、
不必要な、存在の意味など無い、
存在なのだろう・・・・

っと仰るかたはたくさんいらっしゃるけれど、わたしはそうは思わない。


宇宙にくらべれば自分はちっぽけなんだけど、、、

宇宙を意識するものがなければ宇宙というものは、

微塵も存在していないということにほかならないから。


結局宇宙からみりゃ、
ミジンコよりももっと小さい われ 
を通して意識すること、

意識する、宇宙を映す鏡という土台(われ)なくしては、

いくらとてつもない宇宙を目の前に はい、どうぞ っと神から差し出されたって

宇宙の存在は認識されないのだから。


宇宙という存在を認識する意識のない幼児には

いくら宇宙が存在していたって、宇宙は微塵も存在していないように・・・




そして、脳死している人にいくら林檎を手渡したって、

林檎も、林檎を手渡ししようとしている人の存在は認識されることはない、

脳死している人にそれらは ”存在しない存在” なのだから・・・









(つづく)


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by Maryam051144 | 2015-07-02 16:12 | 私見



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存在を感じていればいる程に 追記 に関し、

Wasabiさんから以下のお言葉を頂戴した。


”どのような形態にしても存在というものは
頭の中に常に置いています。”


こちらの言葉を拝見し、

存在、頭 というものに対する概念が彼とわたしではズレているのだろうな・・・


っとわたしは思った。


Wasabiさんは、存在イコール認識しているもの

ということを仰っているか…

頭の中で認識しているもの・・・なのか?


それで思ったのは
わたしはここでもやっぱり、天邪鬼のへそ曲がりで、

頭 というものに、いろいろといっちゃもんをつけて、

頭 を全く得体のしれないもの

と認識してるんだろうと。



脳みそが存在している身体の部位を脳と考え、
死んで脳みそがその働きをストップすれば、
意識も頭脳の働きもストップすると考えるのが、
一般的なんでしょうけれど・・・

実はわたしは、そう思っていない。

幸か不幸か、17歳の時に呼吸と心臓が止まっていたときに
意識もあったし、思考もしてたし感情もあった、

っということを身をもって?経験して、

死がすべての終わりとは、

それから私は思えないでいる…




思考は通り抜ける風、

感情は風にゆらゆらする湖面、

意識 はそれらよりもっと深淵な感じで、

湖の底が鏡のようになってそれらの情景を眺めている感じ。


そして、脳みそを含めた肉体が消滅してもそれらは消滅しないのならば、


意識とか認識、思考というものと身体のある一部としての”脳”というものを、

可能ならば繋げて考えたくないっと思っている。


その理由はわたしが、

脳というものが本当はどこにあって、

その正体は何なのか?全く定かでない

っと感じているからで、

もっと詳しく述べると、

意識・思考・感情などを認識する脳はこの世という空間だけのものではない、、、

いうなれば時空を超えたところともリンクしているのではないかと思っているからだった。




(つづく)







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by Maryam051144 | 2015-07-01 00:14 | 私見




2013年の12月に記載したものですが、


最近記した 


 ”空(そら・から・くう)とは” 


という文章が出てくる根源は、ここで記した想いだったのだろう・・・・


と思っております。






hanakana1 (700x440)
hanakana1 (700x440) posted by (C)maryam f d







あの世とこの世の処世術 ~ ひかり と化し 透り渡る ~








意思 は 石

意思 は 意志 となって 岩 となる

岩(がん)は 我(が)に通じ

強固な我 は 岩壁 となる



*** *** ***



意思 有らば 


石の如く固定され

岸壁の如く高波に煽られ


衝撃・ショックは免れず

それを跳ね除けねばならず

傷つけ 傷つけられ

受容 か 拒否 を迫られる



*** *** ***




名も無き 姿なき 目的なき 意思なき 


意識 で あれ


唯 意思 を 識(しき)す 存在 であれ



たとえ 意思・思念・感情 を 保持しようとも

意思・思念・感情と 同化することなく 


唯 それらを眺め居る



心 を 意思(石)と化すのでなく 


意思(石)を眺める 意識 で あれ




意思(石)は固定され 姿(壁)を有する が 

それを眺めるもの(意識) に 仕切りはない


意を識すもの は 無限



*** *** ***



石 ではなく 空(くう) で あれ


意思 を 空(から) にし

こころ を 空 にする


固定し 構え突き進む のでなく 渡り広がれ




受け止めず 跳ね除けず

受容せず 拒否せず 


唯そこに 意識として広がり在る



”透る ”



海の碧 空の蒼 煌く光 


一瞬 とは 即ち 閃光



*** *** ***




いつでも


どこでも


どんな次元・夢・想念思念の世 に迷い込もうとも




時・間 に 惑わされない 瞬く光・・・ 



”ひかり と化し 透り渡る ”













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by Maryam051144 | 2015-06-29 16:06 | 私見


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ある日突然、何かがきっかけとなって、

未分化の意識でもある ”ふるさと” の存在を想いだします。


しかし未分化の意識に回帰していく姿は、

己のゴールを目指し、世界の果てを制覇しようとする われ(人々)には、

”退化していく”ように感じられるでしょう。




われ と その他のもの という壁を透けた先にある、

どこでもドア(ドラえもんの)を介して繋がれている

万物根源の”ふるさと”は、思い出し、思い浮かべさえすれば、

われ は、いつでも何処からでも ふるさと に通じているのだけれど・・・





なにはともあれ一旦、ふるさとの存在に気づき、

われ がふるさとへ向かえば向かっていくほどに

われ と森羅万象の存在が重なれば重なっていくほどに、



われから引き離し、万物を対象化していくことの意味、

ありとあらゆるものにつけられた名前というものが存在する意味、

言葉の意味、言葉を遣う必要性も、薄れていくように感じられます。



そして同じことが、ふるさとでなくとも、


ある存在がわたしの意識と重なっていればいるほどに


その存在 と われ との壁が透けていればいるほどに、


言葉を介する ということそのものが ”失せていく”のだろうと


わたしは想うのです。









(完)







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by Maryam051144 | 2015-06-22 22:53 | 私見




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”ふるさと” はもともと みな知っていて、

そこからやってきて、還って行く処なのですが・・・


3・4歳ぐらいになって自意識が芽生える、

意識が細分化し言葉を覚えてしまうと、

岸からどんどん沖に流されるように遠ざかり、


わたしたちは、

自分以外の者・自分以外の物 っと意識され、

言葉であらわされ名となった、細分化された、

数多な意識の大海に押し流され、押し流され、流され沈むまいと、

そこで懸命に わたし という自我を確立しようとするのかもしれません。


意識が細分化し、自我を確立させるという行為は、

大海原の浮舟のように、実に実に孤独なものなのですが、

荒波に揉まれつつ、己の目指す世界にたどり着こうと

一生懸命櫂を漕いでいる わたし には、

”ふるさと”という存在は、全くの邪魔物であるのかもしれません。



そうしてわすれようとする、

あるいは、

すっかりと忘れ去られてしまうようなのです。







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by Maryam051144 | 2015-06-21 14:20 | 私見



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しかし…

この一生懸命言葉にならぬ想いを音にして発している2歳の子は

なんにもわかっちゃいない んじゃなくて

意識が明確になっていない、あるいは細分化 していない

ということなのではないか?


っと、

2歳児の気分をこれまでたっぷりと味わってきた、

自分のこゝろを傍観してみて、

わたしは、そんな気がしてならないのです。


もちろん40歳半ばを過ぎても、

言葉を知らない!!! っていうこともありますが、

言葉を知らないだけでもないんです。


そしてそこから飛躍して、

わたしはこんなことまで想ったのでした。




万物の存在の根源とも言える ”ふるさと” という処は、

その未発達段階の言葉を覚えていない前の、

意識の中にあるんじゃないかしら?

っと。


言葉を遣う ということはそういう意味では、

万物の根源的”ふるさと”から遠ざかることを意味しているのだろう

っと。








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by Maryam051144 | 2015-06-20 15:26 | 私見


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”存在を感じていればいる程に


その存在との間に



言葉は


意味も必要性をも


失っていく”







この言葉は、ある方の文章を拝見して想い浮かんだ言葉なのですが、

こう記した時はまだ、わたしの中で充分に分離、対象化していなくて、

未分化の状態で、これだけの言葉をなんとか繰り出すのが、

その時の私には精一杯でした。

でも、これだけの言葉でしたが、言葉にしたことがきっかけで、

お伝えしたいことは、意外にも大きかったんだ!

っということにわたしは気づいたのでした・・・



言葉で伝えるということは、
わたしのなかに意識的に、あるいは、
あるきっかけがあるまで無意識にでも 存在 していた想いを、
わたしから引き離して、対象化して、それを眺めて
描き(描写、スケッチ)、述べることで可能なことだと思います。

さて、どのような言葉を遣って、どのような表現で描けば、
わたしの中のある風景、ある存在という”想い”を 

うまくお伝えできるでしょうか・・・

その風景や、存在や、意思が、多くの方にとって

突拍子もなかったり、思ってもみなかったことだったりすればするほど

お伝えすることが難しいことになります。



姿も形もない私の裡のある思考、想い、意思、意志というものを伝えること、

その難しさが如何程のものであるか?っと言うならば、


時にわたしにとって、”伝える”っということは、

言葉を覚えたての2歳前後の子供が、一生懸命言葉にならない音をだして、

ンマア、、、とかバアアーーーーーとかいっている姿に、

酷似しているように感じられるのです。







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by Maryam051144 | 2015-06-19 04:07 | 私見




ある御方の詩を拝見して想ったこと…


もしわたしが失恋したとして、(否嫁姑の確執でも、夫婦の痴話喧嘩でも!!)

そういう記憶、思い出、思い出の品などを焼却したり、封印して埋めることがあるならば、


それは 思い出やら過去を、

夢を見ていた のと同じにする為

かな…?


っと思った。

(拝見した詩のヒロインさんとは全然違った!!)



っとこんなこと書いているわたしは、
変人だろうけれど、
大真面目な気持ちでこれを記している。



過去をなかったことにするのは実に難しい。

過去を引きずり縛られるのは重く苦しい。

かといって悪夢のような過去を、

これは良い人生経験だったのだ

などと、前向きに受け取ろうとする方も多いと思うが…

ひねくれもの、我が儘者のわたしには、

到底できない…。



過去の記憶は、

そうそう消そうったって消えないし

形だけ焼却、消去したところで、

ハードディスクには残っている訳で、

良い経験をしたんだとか、
人の痛みがわかるようになったのだとかで、
無理矢理痛みを片付けられてしまった記憶は、

かえって歪(いびつ)で不自然のように、

わたしには感じられるのだ…




それだったら

こりゃ夢のようなものだった

っと思った方がいいかな?っと思うのだ。



悪夢のような過去は

ありゃ、悪夢だったのよ !

でいい。


夢のような過去は

そうそう、うーんと良い夢見させて貰ったのよね〜 


でいいと。


もともと過去は、自意識とか、主観でしか認識されないもので、

そう夢と変わんないものじゃないかしら?


同じ過去でも過去を共有したはずの人とは、

時を隔てれば記憶の方も、

案外大きな隔たりがあるものだから。



歴史認識の各国の相違はその極端な例でしょう。



過去はいくらでも良いようにも、悪いようにも夢の記憶のように書き換えられちゃうものね。

だったらその実に曖昧で、胡散臭くもある、

記憶を 過去の  ”事実”  と 認識せんがために、

前向きに良い人生  ”経験”  として、

不自然に刻みつけるより、


夢 と五十歩百歩しか違わないもの、

って思った方が、わたしにとっては自然なのだろうと思う…



(過去の痛みは、心にわざわざ刻まなくていい。

見た夢のようにすっかり忘れた方が良い場合だっていっぱいあるし、

思い出すまではありゃ、いつの日だったか見た夢よ っと思っていた方がいい…

ある場面に遭遇した時になって、ようやく思い出すような、

ただ身体のどこかで、無意識に記憶していれば充分だとわたしは思ってる…)



だって、人は皆同じ時間の流れ、同じ空間にいるようで、

実はそれぞれ異なる己の意識でしか、

時の流れ、過去を含めた万物、事象を

認識できないじゃない?





感受

感じ受け取れるものしか

受け取れないのだ

それは最初からサダメられていた

という程に

平等である





そういう意味では、

その時々、一瞬一瞬の、

時の流れの水かさ、流れの速さ、温度はともかく

人は主観によって人生や世界を認識しているに過ぎない。



真の世界

唯一の世界

なんて  ホンモノ はどこにもない。


有るのは

その人の 世界観  で

自意識を有する人間の数だけの世界があるだけで、

それがまた、それぞれ の 本物 でもあるのだろう。



その一点に於いて、

われわれは平等なのだろう

とわたしは感じている。





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by Maryam051144 | 2015-05-20 01:26 | 私見