存在を感じていればいる程に 追記の追記4
”脳みそは生まれ落ちるとき、リセットされた状態でこの世に発送されてはいるが、
リセットされた脳は、過去の膨大記憶やデーターを保管しつつそれらを統制している、
マザー(母体)との繋がりを完全には絶たれているわけではなく、
今世といわれる次元から少し意識が離れる 夢 のような時空にいると、
部分的に一時的に過去の記憶ファイルが解凍したり(過去世での記憶、体験、感情などを見知る)、
どこに存在するのか定かではないが、異空間にあるマザー(母体)のデータをも、
共有できるのではないだろうか?
そしてある意識は、マザー(母体)との通信だけでなく、
様々な異空間・異次元そのものとも脳に秘められた潜在的な能力を通じて、
時と空間と次元を閃光が如く往来することができるのではないか?
そして物心ついてから、現在に至るまでの現世での我々ひとりひとりの記憶は、
その人生が終わっちゃうと、
具体的な経験や陥った状況などという詳細な記憶を、
いちいち記憶するわけではないけれど、
ある重要な出来事の経験をどのような視点でどんな風に見て感じて過ごしたか、
強い感情の波が起こったものだけが、マザーボードに記憶されていきつつ、
輪廻転生を繰り返していくように感じている。”
(以上、存在を感じていればいる程に 追記の追記3より)
しかし、ある魂(あなたの、わたしの魂)が、
無意識の裡にぴったり寄り添わせている過去世を寄せ集めた経験や記憶さえも、
”われ(本当のあなた、本当のわたし)”には非ずと、私は感じている・・・
輪廻を繰り返す個々の魂とその記憶は、
相対性の根本である”我”に固執している限り、
マザーボードに刻まれてきたこれまでの膨大な記憶は有効なのだろう・・・か?
これまでの数え切れない過去世での記憶や経験に囚われたくなかったら、
自我という壁を透る必要があるようで、
現世での経験や記憶を 眺める ことで現世だけでなく、
これまでの過去世、そして輪廻転生からも解き放たれるような気がしている。
(注意:自我に囚われない、自我を透るということと、客観、傍観とは明らかに異なる。
主観がなくなれば、客観もまたその存在そのものを失う処にある。)
自意識(我)を超えた意識というものは、いうなれば ・・・
澄み切った鏡のようで、そして鏡は森羅万象、万物を映す。
我々、誰しも!!の純粋な澄んだ意識という鏡には、全てが存在しているのだろう
と私は思う。
”存在を感じていればいる程に
その存在との間に
言葉は
意味も必要性をも
失っていく”
言葉は難しいものであるけれど、
容易に・・・それは”安易に”とも言えるのだけれども、
人に認識を促すものでもある。
それが 理性 とか 合理性、客観性といわれる手枷足枷 の仕業でもあり、
説明のつかないもの、認識できないもの、見えないものは存在しないと
言い切ることまで我々に強いてしまっているのではないか・・・
と、言葉が大大大大 だ~~~~~い好きで惚れ込んでいるけれども
わたしはそう思っている。
執拗にもう一度同じことを記す、
我々、誰しも!!の意識という鏡には、
全てが、全てが!! 存在しているだろうと私は思う。
そう思えば思うほどに、
そう感じれば感じるほどに、
見えるものしか信じられない人は
ものすご~~~~~~~~~く損しているとも感じている。
そしてそれは、
素晴らしい楽園にいるのに、
その楽園の真ん中にポツンと置いてある、
楽園を真似たちっぽけな箱庭だけをみて、
楽園だと想っているようなイメージなの。
見えないものというのは
ミクロの世界、マクロの世界のように
見えないけれど存在しないわけではない
っということを知ってもらいたい。
わたしたちの意識のピントがあっていなくて、
その全貌がつかめないだけに過ぎないのだから・・・
”索む もとむ”
意識を集中することと
意識を解き放つことの
術を索む
現象を
ミクロスコープと
マクロスコープとで
眺められるように・・・
(つづく)
by Maryam051144
| 2015-08-06 01:37
| 私見